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ロックはひとえに夢と可能性の物語である。
それは、20世紀の人間にとって、第一級の夢と可能性を実現する手段でもある。
人々は、暗い自己の闇からとびだし、安住の地を捨てて新しい地平を目指したとき、宇宙全体に爪をかけた証として、無限の可能性にむきあうことになる。
かつてのロックがそうであったように本質的に変わりはないのだが、まさに時代が大きな変わり目にあることを教えてくれたのは、何と言ってもロンドンやニューヨークのニューウェーブ・パンクのスピリットだ。
パンクス達が当時の野蛮な感覚をそのまま引っさげて闊歩する町、チェルシー(別名をWorld's End 「この世の果て」という)。ここに店を構ええるブティックBOYは、その店のコンセプトに、
「一国の国力を決定するのは、
その国の若者達である」
というスローガンを掲げているが、東京にも、ロンドンやニューヨークの、そんな若々しい甦りの音楽の影響を最もストレートに、ホットなままにうけとめ、活動を開始していたロックシーンがある。
78年の春頃から、地道なライブ活動を通して徐々に拡大しつつあるそのシーンでは、常にレゲエ、ユーロサウンド、ニューウェーブといった新しい時代感覚と方向性を持った音が話題をさらい、そこを行き来する少年達は、次々にバンドを組み、自らをパフォーマーにしたてていった。
日本の状況内では多分にアンダーグラウンド的にならざるを得ない、そのシーンにあって、最も中核的なグループそれがリザードである。
リザードといえば、リーダーのモモヨだ。彼は、もう一昔前、グラムロックが全盛の頃から紅蜥蜴というバンドを率いて活動していたことが知られる。それが以後、しばらく活動が表面化していなかったものの、彼は、彼の構築した地下帝国の中で地上の先鋭な電波をキャッチしながら着々と作業を進めていた。そして……。
1979年、2月。 ストラングラーズが来日した。
右上ブロックUに続く |
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それまで単独で幾度か来日していたベーシストのジャン・ジャック・バーネルは、ふとした折に聴かされた彼らのテープにかなりの興味を示し、レコーディング・プロデュースを買って出た。
ストラングラーズは、公私ともに、非常に日本と縁があるグループだが、彼らが日本でステージに登るまでの長い長い地下水道を出口を捜すネズミのように駆け抜けてきた末に、トンネルの出口、その向こうに見つけた新世界『日本』は、いったい、どんなものだったのだろう。……世界最高ともいうべき高い美意識、ストイックな伝統、滅びと死の文化、民族の優越性?、強烈な禅スピリット、保守の島国ニッポン……彼ら、欧米の人々が日本に寄せる好奇心は、そのまま、今、世界の注視の真っ只中にあって意思表示を余儀なくされている日本の姿を浮かび上がらせている。
トーキョーサミットもさることながら、リザードがロンドンへ出発する前日には、ライシャワー氏が、今の日本の直面している変化は幕末から明治維新のそれに等しい、といってテレビで重要な講演をした。それは、日本が世界にリーダーシップをとるべき方向性を示唆するもので、私も、ちょうどその日、バンコックにある暁の寺(夜明けの塔)の向こうに昇るアジアの太陽を見たいがためにロンドンに向かう飛行機に乗ったのだった。
こうした時代背景、そしてタイミングをともなって、リザードのレコーディングは、スピーディーに進んでいった。レコーディングが行われたのは1979年7月29日からの5日間。レコーディングセッションは、ロンドンは西の郊外に近いエデン・スタジオでおこなわれた。
……メンバー間には緊張が網をはっている。
その合間を縫うようにジャン・ジャック・バーネルの得体のしれぬ日本語がとびかう。 彼の、リザードからベストを引き出そうとする努力と情熱。そして、暗中模索の中で、リザードがリザードになりきろうとする苦悩……そうした一切のものが渾然一体となって、日本では、けしてカタチにならなかったであろう、自由奔放でレアな冒険心に富んだアルバムが出来上がった。
レコーディング完了と同時に、ジャン・ジャックはスタッフ全員を集めて、
「グッドノイズ!」
と言い放った。
左下ブロックVへ続く |