1979年 夏
リザードレコーディングレポート

 LIZARD IN EDEN
 
エデンの園の蜥蜴たち
by
橋本 ユキ 
 
T U

 ロックはひとえに夢と可能性の物語である。
それは、20世紀の人間にとって、第一級の夢と可能性を実現する手段でもある。
 人々は、暗い自己の闇からとびだし、安住の地を捨てて新しい地平を目指したとき、宇宙全体に爪をかけた証として、無限の可能性にむきあうことになる。
 かつてのロックがそうであったように本質的に変わりはないのだが、まさに時代が大きな変わり目にあることを教えてくれたのは、何と言ってもロンドンやニューヨークのニューウェーブ・パンクのスピリットだ。
 パンクス達が当時の野蛮な感覚をそのまま引っさげて闊歩する町、チェルシー(別名をWorld's End 「この世の果て」という)。ここに店を構ええるブティックBOYは、その店のコンセプトに、

「一国の国力を決定するのは、
その国の若者達である」

 というスローガンを掲げているが、東京にも、ロンドンやニューヨークの、そんな若々しい甦りの音楽の影響を最もストレートに、ホットなままにうけとめ、活動を開始していたロックシーンがある。

 78年の春頃から、地道なライブ活動を通して徐々に拡大しつつあるそのシーンでは、常にレゲエ、ユーロサウンド、ニューウェーブといった新しい時代感覚と方向性を持った音が話題をさらい、そこを行き来する少年達は、次々にバンドを組み、自らをパフォーマーにしたてていった。
 日本の状況内では多分にアンダーグラウンド的にならざるを得ない、そのシーンにあって、最も中核的なグループそれがリザードである。
 リザード
といえば、リーダーのモモヨだ。彼は、もう一昔前、グラムロックが全盛の頃から紅蜥蜴というバンドを率いて活動していたことが知られる。それが以後、しばらく活動が表面化していなかったものの、彼は、彼の構築した地下帝国の中で地上の先鋭な電波をキャッチしながら着々と作業を進めていた。そして……。
 1979年、2月。 ストラングラーズが来日した。

   右上ブロックUに続く

 それまで単独で幾度か来日していたベーシストのジャン・ジャック・バーネルは、ふとした折に聴かされた彼らのテープにかなりの興味を示し、レコーディング・プロデュースを買って出た。
 ストラングラーズは、公私ともに、非常に日本と縁があるグループだが、彼らが日本でステージに登るまでの長い長い地下水道を出口を捜すネズミのように駆け抜けてきた末に、トンネルの出口、その向こうに見つけた新世界『日本』は、いったい、どんなものだったのだろう。……世界最高ともいうべき高い美意識、ストイックな伝統、滅びと死の文化、民族の優越性?、強烈な禅スピリット、保守の島国ニッポン……彼ら、欧米の人々が日本に寄せる好奇心は、そのまま、今、世界の注視の真っ只中にあって意思表示を余儀なくされている日本の姿を浮かび上がらせている。
 トーキョーサミットもさることながら、リザードがロンドンへ出発する前日には、ライシャワー氏が、今の日本の直面している変化は幕末から明治維新のそれに等しい、といってテレビで重要な講演をした。それは、日本が世界にリーダーシップをとるべき方向性を示唆するもので、私も、ちょうどその日、バンコックにある暁の寺(夜明けの塔)の向こうに昇るアジアの太陽を見たいがためにロンドンに向かう飛行機に乗ったのだった。
 こうした時代背景、そしてタイミングをともなって、リザードのレコーディングは、スピーディーに進んでいった。レコーディングが行われたのは1979年7月29日からの5日間。レコーディングセッションは、ロンドンは西の郊外に近いエデン・スタジオでおこなわれた。
 ……メンバー間には緊張が網をはっている。
 その合間を縫うようにジャン・ジャック・バーネルの得体のしれぬ日本語がとびかう。 彼の、リザードからベストを引き出そうとする努力と情熱。そして、暗中模索の中で、リザードがリザードになりきろうとする苦悩……そうした一切のものが渾然一体となって、日本では、けしてカタチにならなかったであろう、自由奔放でレアな冒険心に富んだアルバムが出来上がった。
レコーディング完了と同時に、ジャン・ジャックはスタッフ全員を集めて、

 「グッドノイズ!」 

 と言い放った。

左下ブロックVへ続く


V W

 この時、メンバーやたまたまその場にいあわせた私たちの、はるか彼方に広がった見晴らしは、ちょっとしたものだった。

子供達があそんでいる
裏通りの陽だまりで
きらめく風に吹かれながら
子供達がかけていく
      ニユーキッズインザシティ    

 TVマジックにしてもプラスティックの夢にしても、ガイアナ王国エイシャ、それぞれの曲がリザードというバンドに特有のポップさと魅力であふれんばかりだ。
 
モモヨの情感と詩的世界は、これまでの日本のロックになかったものだ。問題意識に裏打ちされた確信犯じみたポップサウンドも存在し得なかったものだ。彼の歌には微妙な美しさとパワーが共存している。それを世に紹介するのが日本人の手によらなかったことは皮肉といえる。ニューウェーブは、弛緩して意味喪失の寸前だったロックを再生し、生き方もろとも、極めて高い美意識の領域に持ち込んだ。モモヨの作品も例外ではない。
 彼らは、ロンドンでアルバム収録曲を中心に全4回のステージにたった。歌はすべて日本語。これはジャンジャックのアドバイスによるものだ。
 『ナッシュビル』
 『ヴェニュー』
 『グローバル・ビレッジ』
 『ミュージックマシーン』
 コンサート会場には、パンクス、スキンヘッズ、モッズ達が群れる。ストラングラーズのサポート集団、フィンチュリーボーイズの応援があるとはいえ、実にスリルのあるものだった。世界が次第に保守化にむかっているのだ。ナショナルフロントの外国人排斥運動はテロにまでエスカレートしている。音楽の世界も例外ではない。
 そんな状況を反映してのことか、どの若者も、自分達が今、一体どこに帰属しているかをファッションやスタイルそして態度で鮮明にしている。ビートルズは、かつて、
 Get Back To Where You Want To Belong!
 と歌った。

右上ブロックWに続く

 「自分の帰属するところへ帰れ」
 今、リザードの描くヴィジョンは、来るべき未来の分岐点にたち、未来の両側面、ユートピアそしてデストピアに揺らいでいる。彼岸に思いを馳せ、幻想に浮かれた60年代ではもはやない。彼らは、きっと、彼方へと渡ることを拒否しつつも、自らの内なる王国を求める旅にでることだろう。

 太陽が白く燃えている。

 子供達はエデンの園の門前に立ち、こんなふうに明日を、未来都市を夢見ていた。

本稿はリザードのファーストアルバムリリース時にプレス関係者にのみ配られた小冊子に掲載されている文章を推敲再録したものだ。
本稿にあるようにレコーディングは多くの人々によって支えられた。当時、シンコーミュージックから刊行されていた雑誌『Jam』編集長であった水上はるこ氏、そして、本稿、筆者の橋本ユキ氏もそんな一人だ。

橋本ユキ氏は、下町根岸の生まれ。
当時、音楽評論を主な業としていたが、その後は翻訳関連の仕事に進んでいる。原稿にもあるように、彼女はタイ経由でロンドンにきていた。
なお暁の寺は三嶋由紀夫が小説の舞台としていることで有名。

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