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百夜弾琴録 WEB版

 2007/09/20  更新情報 ジムノペディア歌詞

トップからとべるジムノペディア歌詞ページ掲載の歌詞に誤記及び誤まった改行などが目立つため更改しました。
 2007/08/17  弾琴録再開のお知らせ

嫌な事件があったために弾琴録を休んできたが、いつまでもカメになっていてもどうなるものでもないので再開する。

トピックが二つある。

一つは、ストラングラーズの来日。サマソニに出演するという彼らから招待をうけて観にいったこと。

もう一つは、JJと久しぶりに会い、私の全集に掲載予定の対談を行ったこと。ほとんど雑談だったが、近況を語り合い信頼を確認しあうことができた。運命的なものを強く感じざるをえない。

全集の編纂だが、こちらは音源を既に半分まで納入済み。現在は残り半分を作業中。そんな感じだ。

また何かあればお伝えする。
 2007/05/31  霊鷲山からの眺め

霊鷲山 仮名読みで『れいしゅさん』あるいは『りょうしゅせん』実在する地名である。鷲の峰ともいう。

のちに編纂された大乗仏典の多くで、釈迦説法の場所として設定している聖地だ。私が春にはまった法華経もここを舞台に展開する。

法華経という書名は特定の鎌倉以降の新興宗派を連想させるところがよろしくないが問題は内容である。

ペダンティックな人間には、つまらない、そう感ぜられるようだが、私には、そうとうに面白かった。

冒頭からそうとうに面白い。

カースト制度を否定した釈迦だが、そんな彼の足もとで、もう一つのヒエラルキーをつくりつつあった。そんな時期を物語は想定しているようだ。

新しいヒエラルキーも昔日に似ていた。バラモン=出家修行者を頂上に置いての階層化である。漢訳して上座部といわれる幹部と下部構成者、そしてその下に在家支援者達がいた。

或る日、釈迦は、その教団ヒエラルキーを否定するような言葉を吐く。物語はそこから始まる。

この辺りの理解には小乗と大乗という仏教系知識が要求されるが、ここではそれを無視して話を進める。とどのつまりである。長年、古くから釈迦のそばで解脱のために修行してきたものも、在家の信者にしても、その獲得する高み、ものは同じひとつのものだ、と釈迦は言ったのだ。これが大乗の宣揚である。歴史上、はじめて大乗仏教が宣言された文言がここにある。

ながらく釈迦にしたがって苦行し、その結果、自分は悟りを得ており、他の衆生に比して高次の存在となっている、そう想っていた修行者達は、釈迦の言葉に反発して山を去る。そして、彼らが去ったのを確認して初めて釈迦は大乗の教え、白い白蓮の教えを詳しく語り始める。そして、われわれが悟りの果てに得るものは、ただ一つの大きな乗り物なのだ、と説くにいたるわけだ。

この山でとかれたとされる教えが、後に、チベットから中国、つまりアジア北西部を経由して日本にまで響く。サンスクリットの仏典は、多くこの系統だ。大乗仏典に多くをよっている日本の仏教はこの山上からはじまったといっていい。

一方、バーリ語のものは、それよりさらに早いスッタニパータやダンパマダなど、いわゆる小乗のもので、こちらはインドから東南方向へと発展してマレー半島を染めるようにして拡がった。この教えが我が国に届いたのは、そうとう遅くなってからだった。ちなみに、私が小学校五年生の時にはじめて買った岩波文庫は、その一つ、数少ない漢訳経である法句経(ダンパマダの部分)だった。

ながながと仏教について書いたが、日曜日のライブのことを語るには、これが不可欠だった。

日曜の夜、ラストに演奏した『庭園』の歌詞にある、

花が開き世界が起こる、

このフレーズも実は道元禅師がのこした大著『正法眼蔵』に収録された禅語に依拠するものだ。世界の実相を肯定的に歌った一節である。

かくあるごとく仏教に対する理解はリザード歌詞の享受に不可欠なものである。

この視点でながめると、私個人の解脱をテーマにした『ジムノペディア』が小乗のアルバムなら『岩石庭園』は大乗のアルバムといえる。

音楽的にも一聴してポップ、それでいて演奏するとスピアメンの水沢君が言うごとく、かなり煩雑なところがある。
この様式そのものが大乗的なものを宣揚していよう。
ロック文化におけるあらゆるジャンルの秀逸な部分を吸収し、明晰なアレンジを施し、トリオの全員の音が必要不可欠でありながら、どこにも欠損したところがない。こういう音楽的な有様は、なかなかに『在り難い』ものなのだ。ライブで演奏するのが困難なのは、オーケストラがはいっていたり、シーケンサーが必要だからではなく、上演する者の魂に、緊張感を維持出来る強靭さが求められるからだ。つよい心の力が必要だからである。

日曜日のスピアメンが力を尽くしながら一方で冷静に自己を振り返りうるのは、そのような構造が大きく作用していよう。硬質な心をもつ演奏者にとっては、ある意味、そうとうに刺激的な経験なのである。

演奏はどうであったか、といえば、私はまさに上出来だったと想うのだ。曖昧な演奏で客をのせるようなことをせず、ひたすらカタチを描き、ラストには、大輪の白い花が咲いたろう。実際に花を見た人も多くいるはずだ。白い大きな蓮華が舞台上に咲いた、それを幻視できた方は幸いだ。舞台で歌う私の背には、時間的にも距離的にも遠い霊鷲山の風向がひろがっていたろう。それが見えた方も幸いだ。

80年初期の私を演奏に重ねることができず、それが不満だった方もあろう。この冬のロフトの平野氏との対談で、ファンサービスとして時には過去を再現したライブもやる、と私は語っている。このことは、私にとって本然のライブは、80年代の初期パンクとは遠く隔たったパフォーマンスだということだ。その意味でいえば、日曜日のライブこそがそれなのである。

しかしながら、ここではっきり言っておこう。私にとって、音楽のスタイルなど、どうでもいいのである。私は、いや人間は、内部にかかえているものを表現するおりに最適なスタイルをそのアイデアに与えるだけなのだ。あえて私を人間と言い替えたのは、これが表現者にとっての普遍的な真理だからである。模倣者は様式の礼讃者となるであろう。しかし、表現者は異なる。様式とは、ただの方便なのだ。例えば、花瓶に色を塗るとしよう。その際に何色でどのようなカタチをぬるかも大事だが、その総体でどのような花瓶を現成させるかこそが最大の眼目であろう。音楽の様式とは、色やカタチ、あるいはブラシの使い方、そうした方便に相当する。つまり、眼目ではないのである。

私の音楽的趣味はワイドレンジ、相当にはばがひろい。私はよくそう言うが、それは以上の信条に裏打ちされた言葉なのだ。

『岩石庭園』とそれに先立つ『変易の書』をリリースした時、それについてこられなかった方は多くいる。八十年代初頭に拘る方の多くはそうした傾向がある。不幸な事実である。その不幸な事実をいまさらのように繰り返すことはなかろう、そう想うのである。私の本然が彼らの期待にそぐわなければ静かに退去すればよい。

私は,より多くの子供達、老若男女、動物たち、花々、木々、鳥や魚、過去現在未来の三世の、宇宙を転回させん願う魂とともに歌うだけであり、奏でるだけである。どのアルバムの曲を演奏するにしても、今の私の後ろには、彼らがいる。日曜日に私の声にのって響いた歌は、ある意味で私のそれではない。さきに統合という言い方をしたが、それは私自身の言い方であって正しくはなかろう。歌において、私とともにある大きな者達、彼等の力を信じて解放したがゆえの響、それが日曜日のライブにはあったのである。さかしらな私のはからいではけっしてない、のである。

それを霊鷲山からの響が私の口をついてでたのが、日曜日のライブ、ステージ上の歌であり、それこそ新たな時代を迎える宣揚であったと想う。

スピアメンのメンバーは、自分自身には尋常じゃない厳しさをもって舞台に臨む。
自己をくらまさないのである。それは私も同じだ。
この前提条件を見失うと私たちの真意は見えてこないだろう。勘違いするだけとなろう。

問題は、舞台を前にした方に、霊鷲山頂に咲く花が見えたか、ということだ。
 2007/05/28  はっきりさせるぞ

ここ二ヶ月ほど静観していたが、もうだめだ。このままでいたら私の人権も何もなくなってしまう。

MIXI関連のファンの中に、昨日、写真をとるスタッフだといってお店に入場しようとした人や録音したことを日記で公言する連中がいた。そんな勝手なことをやられ日記に書かれ、私が黙っていると思っているなら、とんでもない話だ。昨日の演奏者、お店がそうした事件の積み重ねにどれだけの心理的影響を被っているか、考えてみていただきたい。こちらは楽屋から外にでないようにしていたし……。

彼等は、この春、リザードアーミー2007というグループを勝手につくり、呑み会などを開いている。それは勝手にすればいいが、そのコミュを立ち上げた後に連絡してきて私に参加しろといってきたり、公認しろと言ってきたり、なんだかわからない話ばかりだった。公認を断ったら何の連絡もなく、さっさと解散してしまった。

とんでもない話である。

かんちがいしている奴が多そうだ。勝手に呑み会やっていてくれればいいが、私の応援をするとかいう理屈は抜きにして欲しい。だいたい、どこかで中年の人たちが呑み会をやっているとして、だよ。私がそれでたすかるとは、とても思えない。

風通しをよくするためにはじめたMIXIだったが、七面鳥よろしく羽をむしるようなことばかりをする連中が、ファンだといい、呑み会を開き、かってにスタッフを名乗り、写真をとり、録音をする。

なんじゃこりぁ、ふんだりけったり、である。

※ちなみにオリジナルのリザードアーミーと、リザードアーミー2007は、まったく無関係だ。この点で注意を喚起したい。オリジナルのそれについては、私は謝意を表しているが、それは、この2007という紛らわしい団体とは無関係である。
 2007/05/25  2007年5月27日うたびとかえらず初演

ちなみにトップページわきにあるリンク、mp3とOgg比較用に公開している『うたびとかえらず』だが、これまでライブで演奏したことがない。今度の日曜日、20年の歳月を経てはじめて演奏する。そう考えると感慨深かったりする。
 2007/05/20  来週末の渋谷 La Mama

来週末の日曜日に渋谷のLaMamaでライブ。内容がはっきりしたので、御知らせしたい。前の日記に書いたように久しぶりのオメガ。これは出番最後。そして企画冒頭、頭が私のソロ。私のソロはインストア、ディスクユニオンのセットに加えて二曲追加。思いっきり幽玄なプレイにしたい。オメガの目玉は、やっぱり岩石庭園からのナンバー、かなぁ。テーマは花。ということでジムノペディアの某植物テーマの曲もやる。ここ一年くらいの選曲とはだいぶ違う内容になる。

ということで、皆さん、時間があえば是非、ご来場ください。ちなみにモモヨソロ、インストアとはだいぶ違う。味も深まっているはずだし、今回はオメガとの対比も面白いと思う。
 2007/03/26  ソロ

ソロで演奏する曲に対してご要望を皆さんから頂いている。皆さんそれぞれにまだ返事をしていないが、現在、まっぷたつとセレブレーションのソロアレンジを終えている。つまり、

『王国』
『ニューキッズインザシティ』
『エイシャー』
『さかな』

に加えて、

『まっぷたつ』
『セレブレーション』

の全六曲が用意できたことになる。

それに加えて、本来的に私のギター弾き語りにバックをつけたカタチでアレンジしたミニアルバム『変易の書』から『うつせみ』をピックアップするつもりなので、これだけで七曲用意できたかたちだ。このスタイルの新曲もいくつかあるので、全てを統括してアルバム化することも考え始めている。

現在、情宣がどういう段階にあるのかわからないが、スピアメンの水沢くんから連絡がありラママでのギグをスケジュールに組み込んだ。例のΩセッションを展開しようという話だった。私としては、皆さんのご要望に応えるつもりもあり、ソロでの演奏も含めてギグに望みたいと想っている。

時間などの都合でどうなることかわからないが、ソロを中心にして数曲のみのオメガとなるか、あるいは五年位前にラママで演奏したように、ソロでワンセット、Ωでワンセット、そんなカタチになるかもしれない。そのあたりはわからないが、インストアという悪環境ゆえに、音楽の細部、微妙なニュアンスまでを伝えられる手法に開眼した以上は、そこにこだわりたい。そう考えている。

静寂、あるいは雑踏、そうしたキャンバスに石を投じる。当然、フィールドに波紋が拡がる。淡いとはいえ断固として自己を主張する色彩へ……、素朴な音が確実に場を染めていく。ミニアルバム『変易の書』を制作した際のテーマがこれであった。あるいは、今こそがそのあるべき姿を実現すべき時なのであろう。

ギターの弦が振動し、場を彩色する。その色彩の揺らぎに歌詞が言語以上のなにものへと変容する。それが音楽の存在理由なのだ。その単純なことを実現できる能力が私にある以上、それを晦ますこともない。

素直にライブに臨みたいものだ。
 2007/03/19  ツァラトゥストラにさるぐつわ

ここ数ヶ月、作品集のために初期・紅蜥蜴の作品を総点検している。

過去音源も相当数残されているが、歌詞カード、ノート類のドキュメントは、私の場合、膨大な数が遺されている。このサイトにも作詞、詩作全般について考えたアイデアノートを資料として掲載してある。それに似たものが作品一つに対してそれぞれ遺されているのである。ちいさな作品に対してもノート約一冊が充当され、異なるヴァージョンや散文のイメージ類や関連するメモが付されている。それを頼りに思いをめぐらせば、かつて私がたどった思惟の小道、足取りを明確に了解できるというものだ。

夜中に、そんな一つに思いをさらわれると、簡単に夜明けを迎えてしまう。そんな日を過ごしている。

作業の中で幾つかの小品を発見したが、実を言うなら、私は、いまその公開に躊躇しているところなのだ。それがタイトルに掲げた『ツァラトゥストラにさるぐつわ』である。ツァラトゥストラは人名だ。哲学者ニーチェがその思惟の最高峰としてものした『ツァラトゥストラはかく語りき』の、語り部、主人公の名である。

TVマジックの異詞同曲作品『ロッキンドール』でも「ニーチェ、サルトル糞喰らえ」というフレーズを採用している私だ。そんな私にとって、サルトルもニーチェも非日常的な存在ではなかった。わざわざ罵詈雑言を投じる必要があるということは、彼等、幾人かの哲学者が私の思惟なり思考法に大きな影響を及ぼしていたことを意味する。いちいち解説するまでもなかろうが、そこに実は大きな問題がある、そのことに気がついたのである。

ニーチェは来るべき新世紀に末人(知的思惟に理解を示さぬ動物的存在以下の人類)の世が来ることを予言しているが、そんな末人の世にあって、私の歌が彼等末人が哲学者を鼻で笑い飛ばすことを担保してしまう結果になるとしたら、どうだろう。当然、それは私の意に反している。いや、むしろ絶対に阻止せねばならぬ事態である、そう考えた次第だ。

このところ、演歌歌手の母親を歌った曲の改変問題がワイドショーなどで話題になっていた。それは、著作権法云々の問題というより、オリジナルにこめられた作詞者の想いがオリジナル歌手によって踏みにじられた問題と私には見えた。この周辺のことに関しては、明日のデジクリに詳細を書いているので、ここでは触れないが、末人達が蹂躙する現世を少しでも『あるべき世としたい』という作詞家の想いが、意に反して利用されたならば、それは最大級の侮辱であろう。

哲学者や先達を歯牙にもかけない愚かな魂の擁護に自作が援用されるなど、侮辱の極みである。その侮辱的な事態を自らまねくとすれば、それは愚行というしかなかろう。

私の作品には、私の思いやメッセージではなく、ヴァーチャルな人格がヴァーチャルな用語をつむいでいく思惟を描いたものが多くある。リザードのファーストなら、例えば、TVマジックを歌うのは漫然としたメディア、機械としてのテレビであり、ラブソングを歌うのは医学的視点に自我を呪縛された医学生である。こういう輻輳的な歌詞を愚かにも直接的なメッセージであると理解する者があまりに多くいる。そのことひとつをもってしても、明らかだ。

作品は、悪意ある者の意図的な仕掛けによって、本然のありようを簡単に逸脱してしまうものだ。

「ツァラトゥストラにさるぐつわ」と私が歌うとき、そのツァラトゥストラの言葉に耳を貸す私の存在を暗黙のうちに示している。ツァラトゥストラが何ものであるかを知らない者、彼の言葉が聞こえぬ者は、この歌を理解できないはずだ。無意味である。

金銭と性欲のみに支配された末人が、ツァラトゥストラに対して優越することなど、あらゆる局面にあって、ありえるはずもない。あってはならないことである。

末人には、けっして到達できない、思いえがくこともままならない幸福というものがある。金と権力だけではどうにもならないものがある。

考えてみればわかる。

金を払えば誰もがブラインドタッチをマスターできるわけがなく、英会話教室に授業料を払えば一夜にして英語堪能となるわけでもない。セレブといいながらも孤独は孤独であり、無明の闇は尽きるところがない。腐敗した心から滲み出る老醜はどんな整形外科手術でも消し去ることあたわず、いかに高価な化粧品、薬剤を使ったとて隠す術はないのである。

老病死苦につきるところはない。この当たり前のことを忘れてはいけない。

知恵を身につけたものだけが見える美というものがあり、まとうことを許された美があるのである。老いによって体得できる平安があり、到達し得る心の安寧がある。

その当たり前のことが見えなくなっているのは、まさに今が末人達の世の中に堕しているからであろう。

この事実を私は時代に突きつけたい。
 2007/03/07  Web Rooftop

DVD『ロックンロール ウォーリアーズ』のリリースに呼応して、ロフト席亭・平野、テレグラフ・地引、両氏と私の鼎談記事が3月配布中のフリーペーパーRooftopに掲載されている。

読んでみたいが、入手困難だという人、また字が細かいので内容を把握しがたいという方には、ウェブ上に掲載されている記事をお薦めする。

ウェブ上のRooftop記事は、コチラ
 2007/03/05  インストアライブ シリーズ終了

昨日はディスクユニオン下北沢店でのインストアライブとサイン会。多くの方に脚をお運びいただき、感謝にたえない。これにてDVD発売にともなうインストアライブ月間終了。あらためて皆さんの参加、ご協力に感謝の意を表したい。

ありがとうございました。

前にここで演奏曲目リクエストを募集したところ、皆さんからいろいろとご意見を頂いたが、結局、ギターアレンジがすでにできていた『王国』を採用した。結局、『王国』につづいて『ニューキッドインザシティ』『エイシャー』『サカナ』、計四曲を演奏した。

以前書いたとおり、現在、敢行しているエレキギター一本でのスタイル、他に類型はないけれど、それだけにポテンシャルが高く、相当な可能性をひめたものとなった。通常は音を加える方向で詩とメロディを補強していくわけだが、それを淡い色彩で一気に画きあげる、いわゆる素描である。これは実際に見てもらわなければわからないと思うが、多彩色の完成品と比べて遜色ないものにすらなっている。北画的な墨絵の世界に似ているが、豊穣な煌きもある。

全国展開をしていないので、ここでいくら書いても皆さんに伝わらないかもしれない。しかし、これからは、この身軽なスタイルでの活動も考えている。身軽なだけに、いつか皆さんのご近所に伺うこともあるだろう。

その際は、よろしく。


This CGI Script is Diary v1.1