多分、常にコンセプトが優先する彼等の作品中、最も美しく、‘はで’なものだろう。
 松陰に導かれ東洋の知恵に親しんでいるおり、僕は、そのアルバム・カヴァーについて、ひょんなことを思いついた。
 前述したように、僕は、それをストラングラーズには珍しく、デザインのためコンセプトを犠牲にしたもの−−−と考えていた。それが、ある夜、ふっと秘密を開示してくれたのだ。僕はノートをひろげ、まず、幕末のキリストと書いた。そして、−−−ノー・モア・ヒーローズ。多響的統一〈たきょうてきとういつ〉。 花の論理。 英雄という名の‘モノノケ’を否定する。このアイデアは東洋的な『和』につらぬかれている。覇道〈はどう〉に対する王道。と続けた。
 ここから『葉隠』は遠くない。
 松陰も蜥蜴の眼を持っていた。
 近代西洋の植民地主義には、支配、被支配という対立する概念があるだけだ。どうも彼等は覇道〈はどう〉の信棒者らしい−−−と蜥蜴は考える。王道をわきまえぬ‘えびす’。彼の眼に西洋人はこう映る。‘えびす’とは野蛮人のことだ。
 これは冗談ではない。松陰は、しんそこ、白人を‘えびす’と信じていた。それも、文字通りに、文化がひらけておらず、教養もなく、粗野な種族の意味でだ。松陰に彼等の科学技術は視えていなかったわけだはない。科学の進歩は、やはり学ぶべきものだ。

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