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どこかしら、ひかれるところがあったので、その、当然、銘などない『志野写し〈しのうつし〉』をいくつか買った。
ちょうど陶芸がブームになっていた頃だと思う。町々に陶芸教室がひらかれ、デパートなどでセミ・プロ陶芸家達の作品展が開催されていた。縁があって僕も二度ほど脚〈あし〉を運んだが、正直いって、展示されている作品と僕の間に美が成立したことはなかった。むしろ醜悪なものが多かったように記憶している。法外な値がついていたが、毎日の実用に耐えられそうもなく、実際、数千円で購入した茶碗を平常の食器として使ってみたがもたなかった。例の安価な『志野コピー』には美とは言えないまでも信じられるものがあった。しかし陶芸家の芸術は普段使いさえできない。美術品を実用にしようという奴が馬鹿なのだ、そういう声も聞こえるが、その芸術作品に『志野写し』以上の美があるわけでもなく、第一、こちらの胸に入ってこないのである。『志野もどき』には、図柄にしても、焼きあがりにしても、ひとつとして同じものがない。美しい曜変〈ようへん〉を起こしているものまである。曜変とは一種の科学的変化で、熱などの影響により釉薬〈ゆうやく〉が変色し発光することだ。これは計算して出来るものではない。そう。どう考えても芸術作品には勝ち目がないのである。これは一体どういうことか。
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