と、考えた時、出口はすぐ近くにある。そんな気がした。僕が陶器の美について思索を試みる‘はめ’になったのは、その時からである。
 ものの‘価値’と‘値段’が正比例せぬことをは、すでに楽器選びなどを通じて知っていた。これは紅蜥蜴〈ベニトカゲ〉、リザード時代をともに歩んだギタリストの話だが、彼が長い遍歴の末に出会った運命のギターは2万円の店頭品、国産のコピー・モデルだった。この話から学び得るのは、物のアタリ・ハズレがその値段に無関係、ということで、安価なものの方が優れている、そう考えるのは単純にすぎる。(こうした常識を陶器における価値の問題に応用することは、今は、やめておいたほうがよさそうだ。いたずらに混乱を招くだけだろうから。)
 陶器をあれこれ見て歩くうちに、先に記した『花伝』の言葉が気になってきた。稽古〈けいこ〉は強〈つよ〉かれ云々〈ウンヌン〉、というやつだ。これは世阿弥が彼の父、観阿弥の言葉を引用したものだが、案外、僕が無銘の(つまり無記名の)実用陶器の中に視〈み〉ていたのは、この言葉かもしれない。そんな気がしてきたのだ。どうやら古人のモットーの結実したところに美を視ていたように思われる。これは僕にとって血の肯定でもあった。僕は、手仕事をなりわいとする職人の家に生をうけた者である。

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