その頃、よく読んでいたリルケの著書に、『マルテの手記』という散文作品があって、作中、その主人公マルテが、今までに、この星に生存したであろう人々と、彼等によってなされた著作の量を空想するところがある。その数は当然ぼう大なものだろうが、そのうち、せめて一冊でよい。この宇宙の秘密に達し得た書はないものか。彼はそう考える。僕も同様の妄想にとりつかれたのだ。朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり、 という孔子の言葉があるが、その頃の僕には、しきりに死のことが思われてならず、それがために、真実を希求する心にも、真に迫るものがあった。
 禅問答などに、よく 『如何なるか是れ仏法の大意』という質問をみかけるが、マルテの疑問は、これに通じるものがあり、多分に東洋的なところがある。それは、 西洋思想、 少なくともデカルト以降のそれとは異質なものだ。僕たちは、デカルト以後発達した西洋の合理主義、科学的視点が、物事の本質を追求しているものと誤解しがちだが、実のところ、それは窮極の『何故』を放棄するところから開始されている。わからないものは永遠にわからず、それをわかろうとして、 とり乱すのは、 西洋文明の洗礼を受けぬ東方の蛮族のみ。と、こう考えるところが西洋思想にはある。

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