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いつだったか小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』という本を読んでいたところ、蛮族は蜥蜴の眼をもっている、というフレーズにぶつかった。僕の記憶違いでなければ、小林は、ドストエフスキーやトルストイといった、十九世紀ロシアの作家たちが驚くべき仕事を
為したのは、彼等が蜥蜴の眼で世界を視ていたからだ、というように論を展開していた。当時、西欧合理思想の大量輸入時代にあって、ロシアの作家達は、小説の何たるかを、つまり、その可能と不可能をわきまえず仕事に着手することが多かった。そして、それが彼等をして西欧小説の限界を大きく踏みこえさせたのだ。まさに蜥蜴達の勝利、可能性は蛮族のみあるといえる。
ところで、先に禅問答についてふれたが、この質問の現代語訳を岩波文庫本『臨済録』からひくと、仏法のぎりぎり肝要のところを伺いたい、ということになる。かの本では、この類の質問を発した者のほとんどは悲惨な結末をむかえる。「かーっ」と一喝されるなど、まだましな方で、ひどいのになると、払子という、座禅の時に蚊などを追い払う道具で殴られたりする。しかし、そうした問いを発する者はあとをたたず、師は根気強く、しょうこりもない弟子達を叩き続けなければならない。ここで大切なのは、師の暴力が、弟子の問いを否定してのことではなく、むしろ、その答えであることだ。そのように、蛮人は、文明人が不可知とするものを、直接的に知ろうとする。「はじめに言葉ありき」という有名な聖書の一句は、ここでは全面的に超えられている。直覚とは、いうなれば悟りとは、蜥蜴の眼をもって世界をあるがままに視ることで、論理にしばられた頭脳とは無縁な存在だ。当然、ノイローゼなぞ、あるわけもない。
僕達の王国は西欧合理思想から遠い空間に立てる必要がある。
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