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ATPといえば我がproject
LIZARD typeαを支えるバンドだ。
コンテンツ初回は、そんな彼らをめぐる連想から……
ATPをめぐる幾つかの断章
ATP〔adenosine
triphosphate〕 アデノシン三燐酸
アデノシンのリボースに三分子の燐酸が結合したヌクレオチド。ATPと略称。分子内に高エネルギー燐酸結合があり、生物の運動・物質の代謝・合成・運搬・貯蔵などに広く関与。ADPに変化する際のエネルギーがこれらの直接のエネルギー源になる。
広辞苑、アデノシン三燐酸の項より抜粋)
Momoyo The LIZARD
モモヨ(リザード)管原保雄
化学(バケガク)/ケミカルは苦手だ。子供の頃、近所の薬局で、石綿金網だとか試験管を注文し購入、かなり好き勝手なことをやっていた覚えがあるが、その結果、ある日、トンでもない有毒ガスを発生させるに至り、ひどく苦しい思いをして以来、どうも近づき難いものがある。
冒頭で語意を参照した広辞苑は、辞書であるから、通常、理解できない事項をこれで調べれば、そのおおよそのところは理解できる……はずであるが、この、アデノシン三燐酸の項は、なぜか、頭に入ってこない。判るのは、何やら、バイオケミカルのうえで、いろんな働きをする物質らしいということだ。ちなみに、ADPというのは、アデノシン二燐酸。アデノシンが結合する燐酸の分子数によって、二つは区別されるという。が、言葉はわかるのだが、その具体的な容(カタチ)は不明である。イメージがわかない。私にとって、この解説文はアブストラクトな散文詩と大差ない。
……んなことは、ともかく、私が言いたいのは、ATPというバンド名が誤解されやすいということだ。
私自身、このアルファベットがナンタラサンリンサンの名称であることは知っており、今ココに偉そうな書き方をしているわけだが、日常的には、ナンタラサンナントカのことをいうケミカルな用語、程度にしか理解していない。例えばリポビタンDに含まれるタウリンだとか、リボキシナンタラサンの仲間くらいに、怪しい知的理解をしているのである。逆から読めばPTA、なんて余分なことを考えてしまうのも、これらの用語の基礎になるアデノシンやら燐酸という奴がわかっていないからだろう。だいたいリボースという奴がわからない。
医学系での連想飛躍では、アトピーなんかが思い出される。At
Pでアトピーって読ませるのはどうよ?と私からメンバーに提案したことがあるが、ふと、平沢君(P-Model)の面影が目の前をよぎったのでやめにした。不吉である。凶兆だ。そもそも、アトピーは、某推理作家の小説タイトルではないが、アトポスと読ませるのがよい。高尚な感じがするし……ケケケ。
冗談は、これくらいにしておきたいが、こうまで得体の知れないイメージが噴出するのは、やはり私が、バケ学にコンプレックスを持っているためだろう。だいたい、ゲルだとかゾルだとかいう言葉は、石森章太郎系宇宙、とりわけ仮面ライダーの世界においては、紛れもなく悪に帰属するものだ。ゲルショッカーなんて用例を具体的に指摘するまでもないだろう。
※ ※ ※
むろん、ここで、お話するのは、バンドの話である。
ちなみに私が名前に拘るのは、バンドでアルファベット三文字表記の略字としているものが、ここ数年のトレンドだからだ。青(ブルー)がどうしたとか、常緑ナンタラとかいうような意味のバンド名をアルファベット三文字にしている例の奴だ。で、こうしたバンドは皆女性ボーカルをフロントに置いている。ご存知のようにATPもフロントにタータを置いている。
(たあた、であるかTaataであるか、この表記も曖昧なので、ここでは普遍性を鑑みてタータとしておく。ちなみに、ここでは横書きであるが、縦書きの場合をも考えあわせて推理した。さすればカタカナ表記が一般的と考えるからである。)
かような事情から、ATPが極めてきわどい境界線、バンドイメージに境界線があればの話だが、きわめてデリケートな立場にあると考えるからだ。実際に、トレンディな、そうしたJポップバンド群が、三個の単語、形容詞+名詞による語句を構成する単語それぞれの頭文字であるのに対して、ATPの方は、略語であって略語ではない。少なくとも私にとっては、幾ら覚えても頭に入ってこないアデノシントライナンタラとか三燐酸ではなく、バンドはATP(エーティーピー)なのである。
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昨年のこと、私はATPとともに『ギルステイン』というアニメのサントラ製作に立ち会ったが、それ以前にも、彼らには、メジャーからアルバムをリリースした経験がある。といって、私はその当時の彼らを知らないし、彼らも多くを語ろうとしない。それは、どうやら、ほろ苦い思い出としてメンバーの脳裏に残っているようである。彼らにとって、現実のJポップ、あるいは日本のロックは、苦渋に満ちたものでしかなかった。そういうことだろう。
私自身が、そうした世界の生ぬるい感触が我慢できない体質だったので、彼らが抱いた違和感は、よくわかる。具体的に、何をどうすればいいのか、それは不明ながらも、何かが違っている、そうした乖離の感覚は、あからさまな不平不満に比べて性質(たち)が悪い。なにしろ欠乏や不満そのものが正体不明なのだから、簡単に改善することも段階的に上昇することもできない。
音楽をつくり、それを音楽として把握し、それをオーディエンスの思考と運動によって受容してもらう。多少、難しいが、音楽を演奏、パーフォーマンスするものの基本的欲求がこれである。このことは、誰にも納得していただけると思うが、この基本的なものが実現しないのが現在の音楽情況なのである。それこそが大問題なのだが……。
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ロックはライブこそが命、というような言葉をよく聞く。
しかし、本当にそうなのだろうか? 私自身は、この言葉に欺瞞を嗅ぎ取るものである。
音楽は、時間をキャンバスとし、キャンバスとなるべき時空にさまざまな振動の色彩で満たすことで成立する。ロックだろうとパンクだろうと差異はない。キャンバスに油絵の具でべったりと色彩を塗りたくるか、筆の勢いを利用して墨で大書するか、あるいは水彩であるか、こうしたアナロジーによって音楽の在り様を語ることは特殊なことではない。再現し得ない、刹那と刹那のせめぎあい、契機に次ぐ契機、触発による触発は、他に例がない緊張と昂奮を私達に与えてくれる。それは確かである。しかしながら、私はライブに重きを置く意見に欺瞞を感じている。
それは、ライブというものが、その場にいさえすれば、それを享受できる、あるいは、享受したと錯覚できる?有難い代物だからだ。
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ATPの場合も、他の多くのバンドに混じり、ルーティンワークとしてライブ活動を展開している。しかしながら、私自身は、彼らの真骨頂は、レコーディング、スタジオワークにあると考えている。このバンドがオリジナルを解体しては、再び組上げているその様はmp3.comなどにドキュメントとして記録されている。そして、この真摯な態度は、世界中に多くの共感者を生んでいるのである。
まさに、これこそ、ロックの、忘れ去られている最大の魅力である。ATPが世界的に受け入れられている事由の一つは、まさにこの点にあろう。妥協を許さず、常に新しい視点でサウンドを構築しつづける点、つまり、この常に変化しつづける変移体として、まず評価されているはずなのである。この変異の点で重要な要素がある。それは、変化のレンジの幅である。
多くのミュージシャンは、自分の所属するとされる音楽の様式(スタイル)を踏襲し、その枠を越えようとしない。
しかし、現実には、今日の都市において生を営む以上、街の雑多な音世界に身を晒しているわけであり、ただ生きているだけで、ジャンルを越えた音世界の美を享受することができる。あらゆるジャンルには、そのジャンルなりの美意識、視点がある。これらの視点も、享受者に音に対する感受性があるなら、彼の内部で芽吹き、複雑にからみあい、果ては複眼的な価値観、他郷的な美意識、スタイルのコラージュとでも言うべきものに成長するはずだ。
この点を理解しないことには、実をいうと、コンテンポラリーな音作品は語れないはずなのだが、日本では、何者かの恣意的な誘導によって、稚拙なデマゴークが幅を利かせているのである。
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ちょっとしたイメージ遊びをしてみよう。
妥協を許さない、ライブこそ命のパンクバンド。という命題を考えてみて欲しい。十年一日のごとくピストルズサウンドを奏で続けるバンドが、もし、いたとして、これは、確かに偉大ではあろうが、一体どこが偉大なのかを考えてみたい。
例えば、私は、ここでなぜ『偉大』という言葉を使ったかというと、私自身が、そのような苦行に耐え得ないからだ。
以前、ある雑誌に書いたことだが、例えば、私がラーメンが好きだとして、それを人前で食べれば、ギャラがもらえるという珍妙な職業についていたとしよう。毎日毎日ラーメンである。それを毎日、観客の前で上手そうに食べる。……言うまでもなく、これは苦行である。偉大なるパンクバンドという奴は、まさにこれだ。
だいたい、このラーメン男のどこがパンクなのか?私にはそれがわからない。
時代が下ると人心も、センスも低下するのかどうか私には判然としないが、しかし、この偉大なるパンクバンドを求めるような音楽ファンは、たしかに存在するのである。
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もちろん、ただ変化をすればいいというわけではない。
変化には、歴史と必然という要素が含まれる。反逆として、時代に切り込んだものが、後に様式化してきたのが、現在多様化しているロックの本来の有様だった。そして、歴史に対決した、この反逆のリスクを負わず、様式化したスタイルに固執する者たちの群れは、確かに存在する。リスクを負った反逆に対して、彼らは概して無理解である。
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コンテンポラリーな複眼的音楽という点で音を磨いていく場合の最大のリスクは、実は反逆という点にはない。むしろ、その音楽が成熟していく過程で、一聴して極めて聞きやすく感じられるものに昇華してしまう場合がある、そういう点である。
内容的には、多くの反時代的要素、反様式的要素など、革命的な手法を多分に含んでいても、職人的な手際によって、まったく聴きやすいものにしか聞こえなくなる場合がある。こうしたものは、一定の耳を持つもの以外に知る由もない。
ここから誤解が生ずる場合が懸念されるのだ。
※ ※ ※
もし、あなたがATPの曲の幾つかを聴き、ポップな安定のみを感じていたとしたら、ライブの彼らには失望するだろう。彼らのライブは、音は当然ながら常に一定の水準を保っているものの、実験的であり、かつ正統的なジャムバンドだからだ。もちろん、すでに枯れた曲でさらりとやってのける曲もあり、耳になじんだ安定感もそこここにある。しかし、幾度かライブに通うことで理解されると思うが、真骨頂は、毎回、ステージの位相や音のカラーが違うということである。
特に、最近の彼らは、少しずつ、新しい人脈が加わり、サポートするスタッフも増えつつあるので、その流れ如何でライブでのパフォーマンスも変わってくるようなのだ。こうした流れの繰り返しにおいて、いつか、殻が破れ、新たな容が表出するだろう。
古い殻を打ち破れ……Change Change Change
New Kids In The Cityを聴きながら
2002年9月13日金曜日