未発表原稿
詩歌論雑記
来るべきロック考のために 1984序
以下に展開する論考については若干の説明が必要だろう。内容のほとんどは古典あるいは現代の文学に関係したものだが、私は、これを自分がながらくその中で育まれてきた池であるところの音楽、とくにロック論として構想した。それをなぜこのようなカタチの雑記としてまとめたのかといえば、その答えは明瞭である。
惜しいことに、今現在の音楽ジャーナリズムにおいては、以下の私の論考を語る場もなく、同時に耳をかす読者もないだろう、そういう独断によるのである。
私は、この論考の答えをいつかこの雑記に出会うかもしれない未来の人に託したのである。1984年 春 モモヨ
T 詩人と詩論
1983年、つまり去年のこと、私は歌論、もしくは歌謡考(ここでの用語は、いわゆる歌謡曲を想定していない。歌謡という語は、古代歌謡、今様や、謡曲をイメージしているのである)、歌詞論の集成を試みた。二十九歳という年齢から、春の形見を思い立ったのか、スランプゆえだったのか、今となっては、よくわからない。とにかく、詩の良否を判断する基準を出来得る限り明確にしてみようと思った。
その前年、音楽について同様の試みを為し、放棄したことがある。去年の試論もその音楽論と同じで、はずかしながら、実現せずに終わったが、今思うに、精神衛生上、よいことだったと思う。ずいぶん思い上がっていたものだとも思う。そのどちらも、行き着くところは私たち自身の感覚、いうなれば世界存在の神秘そのものであり、論理的に決着がつくはずがない問題だ。そんなあたりまえのことを忘れていた。
音楽の場合は、ハッキリしている。
音楽における平均律の存在。それが証しているではないか。平均律、少しでも音楽に関わるものであるなら、この言葉は知っているはずだ。これは、一つの妥協案なのである。
私達は、ある音の周波数が倍増(×2)した時、変化の前と後の音にオクターブの音程変化を感じることができる。そして、普通、私達の用いている音楽は、オクターブ間に12の半音をおいているわけだ。(ピアノの黒鍵、白鍵両方を足せば、この数になる。ギターのフレットも同様)
では、ここで、そのオクターブを数学的に12分割した時のことを考えてみよう。先ほどの例で、其音が400ヘルツだった場合、そのオクターブ上は二倍だから800ヘルツだ。この時、それを12で割ったものをまずイメージしておいてくれ。半音程は12分の400ヘルツ。ここまでは判りやすいはずだ。次に、考えて欲しいのは、ベースとなる基音が変わるとどうなるか、ということだ。其音が500ヘルツにしてみるとどうなるか。1オクターブ上は一キロヘルツ、1000ヘルツである。すると半音程は、12分の500ヘルツになる。
もう明白だろう。
数学的に何も考えずにオシレーターの周波数設定をしてしまうと、実際に楽器として使い物にならなくなるのである。逆に、数学的分割は音楽の中に幾つもの半音程をつくってしまう、ともいえる。
今、私達がピアノなどで使用しているのは平均律。ある意味で平均率とは、こうした現実と感覚の折衷案だ。微妙に設定して、ある程度のキーの変化に対応できるようにしているのである。純粋に、全てのキーに適合しているわけではない。ちょっと適当な感じがして残念だが、見方を変えれば、魔法である。長い歴史の末に醸された優れた方法なのである。
これほどに、難しいのが私達の感覚、とくに美を嗅ぎ取る感覚だ。それを白昼にひっぱりだすつもりでいたのだから、素人は恐ろしい。(シロウト=私)当時エレクトロニクスの勉強に夢中になっていたことも原因の一つだと思う。聴覚心理学なんぞというものは信じないほうがいい。いずれにしろ、世界は論理的にできてはいないのである。
昔から詩人や歌人が歌論に関わるとろくなことがない。一般論で茶を濁すか、自分の無力さを思い知り失語症になるかに決まっている。そして、この混迷の度合いは、詩人の才能に比例するから困る。つまり優れた詩人ほど、詩論に躓きやすい、そういうことだ。
まれに詩に存する美から、心の内奥にある何者か、美の弦線に気づき、それを倫理に高めることもある。孔子が、彼のキャリアを詩歌の研究から始めたことは、もっと知られてよい事実だ。「人間の精神は詩によって発心し、礼の上に安定し、音楽によって完成する」論語の中にある孔子の言葉である。なかなか気の利いたことを言っているではないか。このように詩に志をきざすのは、東洋の伝統的美学といってよいが、それは明治期以降、西洋文明の流入とともに忘れ去られているのが惜しい。
わが国、近代詩人の詩論としては、萩原朔太郎の『詩の原理』がつとに有名だ。
しかし、朔太郎の作品、詩そのものに比して、ここにある詩論は、いかにも味気ないものだ。貧弱ですらある。まるで夢の残骸だ。彼の実作には、行間に、詩の正体に関する多くの言葉が隠されている。しかし『詩の原理』は、作品の一行にもしかない。これは悲しい。(といって、私は、朔太郎の詩論を全面的に否定しているわけではない。その論はきわめて常識的だと思うし、共鳴できるものだ。しかし、彼の実作におよばない、そう言っているのである。)
私達は、意味を喪失して久しい。
辞書にあるのは、言葉の置換、変換であって、意味そのものではない。同義語辞書というのがあるが、わざわざ断らなくても、全ての辞書は同義語辞典のようなものだ。ゆるぎない原理や意味に至る道は封じられている。これはなにも今に始まったことではない。プラトンがソクラテスに語らせているように、それこそ人間存在の根源的な問題なのだ。
朔太郎は『詩の原理』において「詩とはなんぞや?」と意味を求めるうちに、自身の奥深くにある淵源を直視した。その淵は、あらゆる修辞を否定するものだった。それこそが、あらゆる創作活動にとって、致命傷を負わせる暗黒でもあった。
このことは、自戒せねばならない。
以上 第一章 本文了