未発表原稿
詩歌論雑記
来るべきロック考のために 1984U 美について
美は私達の内奥において成立する。それは経験……いわば闇の奥の体験であり、美術作品そのものに美が存するわけではない。あらゆる美術作品は、それを賞するものがあって、はじめて機能する。それに感応する心があって、はじめて存在するといっても過言ではない。
どんな名画も、眼と心のないところでは死んでしまう。どんなに数をたのんだところで、そこに心がなければ美のありえるはずもない。美は数の問題でもなく、当然、作品の知名度とも無関係だ。
人間と自然の関係に眼を転じて見たまえ。
人知れず咲く花があるとする。その花そのものに美がそなわっているわけではないのだ。その花に邂逅する者の心、それを見る目と心があって、はじめて美は成立するわけである。たしかに、花はきれいに咲いていただろう。しかし、そこに美があるわけではなく、花と見る者、二者の出会いこそが美の成立する場である。……観照するものに花に染まる心がなければ、年々の桜も色あせてしまうだろうし、彼に春の訪れるはずもない。これはけして比喩ではない。
美が出会いである以上、美的体験にとって、出会う機会が重要な意味を持ってくる。
ゲーテは、
「あらゆる詩は機会詩である」
と言っている。
彼の、この有名な言葉は、美の性質を熟知する者の言だろう。
美的体験とその感動は、けして、プレイバックのきかぬものだ。いや、美についてだけではなく、あらゆる内的体験が同様の性質をもっていよう。古今東西の『名人』は、機会を逃さぬ秘訣を熟知していた。創作に関わる者が感興の一瞬をとらえるために、彼の生活のほとんどを犠牲にせざるをえぬのは、美のこうした性質による。
創造する者ばかりではない。観賞者にとっても、美は、瞬間的存在、せつな的なものである。
例えば、ある日、多くを語りかけてきたように思えた作品が、他日において、全く沈黙してしまうという体験は、誰にでもお馴染みだろう。
そこにある二者、つまり、作品と観賞する意識は、そんな多感な他日同様に、そこに対面している。なのに、どうしても美的感興が起き上がってこない。観賞者は、あらゆるつてを使って、美の追体験を試みることだろう。しかし、いつかのリアリティ、感動は、手に入らない。戦慄の予感すらない。どこかに消えうせてしまったのだ。
これは、日常茶飯事のことだろう。
そんなことから私達は美を幻想であったと思い始める。
愛の体験も同様である。愛から醒めた後に、それを悪い病か、魔物による無限のごとく述懐する者のなんと多いことか。「私は、意味のない熱病にうかされていた」 このように語り、かつて恋におちていた彼は、愛の体験からリアリティーを追放せんとする。そして、無自覚に新しい愛を探すのだ。
そんな者たちでも、昨夜コンビニでパンを買ったことのリアリティーは、疑うことがない。……なぜ、パンを買ったのか? なぜ、こうして生き延びなければならないのか? 彼らは、はるかな高みから俯瞰した場合、彼の生活全体が美や愛同様に、無為であることに目を閉じる。
実際、さかしらな近代主義は一つの痴呆、一つの不感症である。
美のために自らが滅びることすら厭わぬ古今の『名人』達は、この間の事情を良く知っている。
それが創造の秘訣である。
以上 第二章 本文了