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未発表原稿

詩歌論雑記
来るべきロック考のために
1984

W 知るということ


そもそも何かを知るとはどういうことだろう。私達は知ると言うことを安易に考えていやしないか。実際、知を情報の集積にあると単純に考え、そこに甘んじている以上、彼にとって、ネルバルの魔界はごく身近なものとなろう。知のみならず、美が魔となり、悪の相をおびて現出するのは彼らの眼前なのだ。

私は職人の家に生まれ、自らも音楽に手を染めた。それゆえか「知ること」の重みを身をもって知っている。

芸事の習得は、勘所を知ること、それにつきる。勘所……コツもしくはツボともいうが、それを知らねば一人前ではない。それを頭ではなく、体と意識全体で、身をもって知らねばならないのだ。

世にいう名人は、美学的な黄金分割の理論によって彼の業をなすわけではない。ノミをふるうのに力学を学習する必要もない。必要なのは時間、長い年月だ。彼らの業が鍛えられ、彼らの内部に知が熟するための時間である。そう、職人にとって熟練とは、彼の背後にある時間と同義語なのだ。

何かがわかる、というのは大変なことだ。

コンピューターはいくら情報をインプットされても、けして「わかる」はずがない。知るということもない。

「詩とは何か?」というような問いかけは、実は、ものが可知でも不可知でもないことを理解せぬ者の言であるやも知れぬ。それがついには「人間存在とは何か?」という根源的命題に逢着することを知りながら、それでも問いを発せねばいられないのが、詩人と言うものなのかもしれない。

すべてを根源まで問い直せば、実に、この世の全て、私たちの一生から、毎朝飲む一杯のお茶のという日常茶飯事までが、天の存在同様に、可知でも不可知でもない、不可解なものである。

私が詩や詩論を考えていた時、この視座に気づかせてくれたのは、本居宣長だった。

近世国学者、本居宣長の名前に眉をしかめる者は多かろう。私もかつてはそんな一人だった。確かに、彼の論は古びていようし、読みの浅いものには、危険な影響を与えるだろう。が、それを言えば、古典の全てを否定せねばならぬし、そればかりか読書そのものを禁じねばならなくなる。

私にとっての宣長は、あるひとつの健全なものの見方を教えてくれた師でしかない。

「歌は、もののあは(わ)れを知るより出でき、もののあは(わ)れは、歌を見るより知ることあり云々」

これは宣長が『源氏物語』について語った『紫文要領』の有名な一節だ。歌、つまり詩は「もののあわれ」(もの本来の実存)を知ることから生まれ、その詩心、つまり物事に感応する心は、作品に触れることから得られる、そんな意味である。ごく当たり前である。また、彼の著作『うひ(い)山ふみ』という初学の心得には、以下のようにある。

「また、いずれの書を読むとても、初心のほどは、かたはしより文儀を解せんとはすべからず、まづ大抵にサラサラと見て、他の書にうつり、これや、彼やと読みては、また、先に読みたる書へ立ち返り、幾辺も読むうちには、始めに聞こえざりし事も、ソロソロと聞こゆるようになりゆくもの也」
→適宜、漢字仮名混じりに直してみた。これならわかりやすいはずだ。「始めに聞こえざりし事も」というのは、初め判らなかったことも、という意味。それがだんだん判るようになるというのである。

何のことはない。
読書百辺、意おのずから通ずという金言の通りであるとはいえ、
→ただし、一つの文に執着してはいけない。ここで言っているのは、ざっと目を通して、いろいろと読んでいけば理解できるようになる、そういうことだ。この当たり前な文章に「ものを知るということ」の意外な真実がこめられているのである。

多くの注釈書や辞書に囲まれた私達に、この言葉の真意は遠い。

私達にとって、単なる勤勉の勧めにすぎぬこの一文は、当時の人にとっても、また今の私達にとっても、唯一の学習の方法だったのだ。

私達は、知識とは与えられるものであると考えている。どこかに書かれたことを記憶すること、それが学習であると信じている。そんな私達は、「ものごとの実存を知る」ことを忘れてしまっているのではないか。

かつてプラトンの著作も私を同様の反省に導いてくれたが、彼ら古人にとって、何かを「知る」ということは、そのまま「思い出す」ことだった。辞書には記載されているのは、類語、言い換えに他ならない。意味ではない。意味を知るためには、私達が内部に蓄積された記憶を取り戻さねばならない。意識の底に埋もれた知を活性化させることが、ものを知ることなのである。

古のひとびとは、これらを現代人以上に明晰に理解していた。私は、そう思うものである。

論理的思考法を誇る現代の眼には、先の「もののあはれを知る論」など、卵が先か、にわとりが先かという、矛盾に満ちたものと思えよう。しかし、自身の内部における「言葉と意味」の関係をとことん考察した時、彼の笑いは凍りつくはずだ。例えば、ビッグバン以前の宇宙卵の存在を仮定することで物理学が凍り付いてしまうのに似ている。

意味は、私たちの内部にあって、私達がそれをすでに所有してこの世に生まれてきている、こういうソクラテスに対して、あなたの論理的思考は何と答えるだろうか?

以上 第四章 本文了