未発表原稿
詩歌論雑記
来るべきロック考のために 1984X 歌論と編集
我が国の文学史において、最も苛烈に作歌論確立に意をそそいだのが、王朝末期から鎌倉初期に至る、藤原俊成、定家親子の生きた時代であったことは、よく知られている。定家は後鳥羽上皇とともに新古今集の選者として知られ、父・俊成は新古今美学の先駆けとして知られることから、この二人の時代は、文学史上、新古今時代と呼ばれてもいる。この父子の美学の結実こそ新古今集であった。
ところで、私のような門外漢にはよくわからないが、この新古今的美学というものは、近代の歌人達にすこぶるウケが悪い。
例えば、正岡子規なぞは、日記、随筆、そこここで、それこそ情熱をこめて悪口をきわめ、新古今を否定しているが、彼の拒絶があまりに強烈なために、私のような天邪鬼は、かえって興味を持ってしまうほどである。そこで、この新古今に私は入門し、類書、原典などにあったったのであるが、その結果見えてきたのは、こうした数多くの否定、拒否反応こそ、新古今が他の歌集に比べて独特の気風を有している証である、ということだ。新古今が独自の視点、ムードをもっているからこそ、多くの敵対者を生む結果をまねくのだ。
さらに、定家の選と言われている『百人一首』が、その後、数百年を通じて、世間に流布し、人口に膾炙した結果、後世に大きな影響を与えた事実は、歴史上揺るぎない事象として認知されている。
「もっとも普通なる『小倉百人一首』は悪歌の巣窟なり。その中にて、初めの七、八首は、おしならして可なれど、それより後の方は、ことごとくとるにたらず、これが定家の撰なりや、いなやは、知らず。いずれにしても悪集は悪集なり。」
というのは、子規の『歌話』の一節。
彼らしい猛言である。私のように和歌のわからぬパンクには、その毒舌の方が面白かったりする。
これは、彼独自の表現を借りると『世俗一般の好尚の上に立つ後世の歌よみ』どもに対する宣戦布告の一文であるが、彼の苛烈な反撥心をもってしても『小倉百人一首』が世俗一般の美意識をいかに支配していたか、窺い知れるのである。こうした論の果てに、子規は、万葉の美に帰る事を提言する。
美意識の基礎である以上は、その陳腐であるのも当たり前であるように、子規よりさらに後の世に生きている私は思う。
……実は、世俗一般の美意識だけでなく、他に『妖艶』『幽玄』など、能や連歌といった中世以降の芸道に深い影響を与えた美意識も、この時代に端を発している。こうした芸術論、歌論発展の背景に、当時の『歌合/うたあわせ』の流行を指摘する声もある。歌合は、歌人が左右二つのチームに分かれて、同一の主題などで歌を詠み比べて、その優劣を競う遊びであるが、この場において、判者が歌の優劣を決定する際、彼は自分の判断が正しいことを証しなければならない。見識を明らかにし、勝敗の根拠を皆の眼前に晒すのである。その際の審判の言葉を判詞というが、これが歌論へ成長するのは、当然のことでもあった。
どの文化にも、そしてどの芸道にも、爛熟した直後に、百花繚乱の、ポリフォニックなデカダンスという季節があるが、この時節の歌論もまた、デカダンスの果実である。
そう考えると、こうした王朝文化爛熟の結実である新古今美学を万葉と比して云々するなど、ひどく馬鹿げて見えてくる。こう思うのは私だけだろうか?
同じ和歌とはいえ、一方は、その形すら定まらぬ黎明期の歌集であり、一方はデカダンの極致である。子供と老人を比較するようなものだ。歳をとると子供に帰るとはいえ、子供は子供、老人は老人だ。この二者を同一の視点から語ること自体無理があるのである。
万葉の支持者は新古今を技巧に過ぎるといい、理屈に堕しているという。
これもまた、当たり前のことだ。当時でさえ、定家の歌は俗にダルマウタとよばれ、賛否両論、喧喧諤諤の代物だったくらいだ。達磨歌=ダルマウタとは、禅問答のように、わけがわからないという意味だ。とにかく前衛的だった。そんな定家も歌論においては一般論を振り回していたようなのだが、勉強不足ゆえ、私には判別できない。
私に馴染みのある歌論といえば、わずかに鴨長明の『無名抄』の一遍があるのみであるが、そのような論より、私には、新古今の行間に息づく『妖艶』『幽玄』の方がリアルに感ぜられるのだ。この二つの概念は、まさに単なる言葉でしかなく、歌の姿は、歌そのものより知るしか他に方法がないのである。本居宣長の言うように、どんな歌論も直接歌に触れて得たリアリティを表現できるはずがないのである。そして、また、そのことを熟知していたのが、ほかならぬ中世の歌人達だったのではあるまいか?
例えば定家の父、藤原俊成は、藤原公任選の『三十六人撰』にならって、自分の好みに従い『俊成三十六人撰』なるものを編んでいるが、それは、俊成の好尚をよく伝え、公任の時代に比して新風が明らかになるように編集されている。そのため、新古今時代の歌人に与えた影響は、一方ならぬものがあった。思えば新古今も編集の妙がこらされている。歌集という『容』=かたちをよく知悉していたことが伺える。歌論や詩論以前に、優れた見識を有するものによるアンソロジーが待たれるのは、当然のことだ。理屈は後からついてくるのだから。
……音楽の世界とて別ではないが、ことを歌に絞っていえば、我が国の詩歌、ことに人口に膾炙した歌詞のアンソロジー編纂が待たれるのは衆知の事である。音楽に関わるものが、歌を自覚するには、日本語の歌曲の歴史の流れを知るのが一番であるし、また時代を見る場合にも、80年代パンクやインディーの歌詞などを編むことで、別の風光、いわば時代の顔が見えてくることが期待されるのである。(原注→通常は、音楽ジャンルやスタイルによって、アーティストを選別。それがコンピ企画のありようである。が、この選別の基準を歌詞においたら歴史が編まれるか。面白そうだとは思わないか? 単純なようだが、これは一度も試みられていない。音楽の歴史においても、実はきちんとした時間軸の上で評価するようなことはされていない。つねに、その時点で社会的に力があるものの我田引水状態なのである。考え様によっては、そうした権力者の視座を語るのが歴史だが、創作に携わるものは、そうした歴史に心安らいでいられない。)
本来、ここに評論家の価値はあるのである。美術や文学など、他の成熟した文化を見ればわかることだ。しかし、私のいる音楽の世界においては、評論家は単なる宣伝マンになりさがっている。基礎的な史観すら持たず、ただ感想文を吐きつづけるだけの彼らに対して、私は、『ロッククリティック』というネガティブな曲を書いているが、この曲の眼目は、評論家そのものをこき下ろすことではなかったのだ。全面否定するためではなかったのだが、いまさら、こう発言したところで、蔑称としての意味を色濃くしていく評論家という職名に対して、私は無力である。私に対しては、いま、罰として、無明の現在が与えられた。そうも思う。暗夜に彷徨っている者、例えば、今の私がその典型だが、そうした迷子に道を示すことが評論本来の面目である。しかし、それがなされていない現実が目の前に置かれている。
かるがゆえに、私自ら自分の出自を確認するために、古今東西の知恵にたより、河原者の歩いてきた細道を辿らねばならなかった。もとより、私の仕事は、始まったばかり。そう簡単に結果がでるとは思えないし、今、私がこれを世に問うたところで、私の言わんとするところを理解するものは、まずあるまいし、意味そのものも掴めないだろう。それは想像に難くない。
いずれ地に足がついた来るべき者が、こうしたアンソロジーを編む時代になろう。それが世に出た暁には、今日、私達の目を乱視にしている様様な意匠、レッテルの向こうに、なにものかが見えてくるかもしれない。実は、今現在を生きている私達自身二十世紀末特有の歌論、風潮を有していながらも、それに気付かないでいるのかもしれないのである。
歴史とは、本来、そういうものなのだ。評論家にしろ、歴史にしろ、そうした本来の面目が顕れる時は、いつか来る。1984年5月
東大五月祭ロックフェス舞台の後に記す《追記》
去年(1983年)より心に去来して私を衝き動かしてきたものを明確にする、それがこの雑記文章の目的だった。お気づきかもしれないが、文中、ロックという語をできうる限りに避けたのは、そのロックそのものを鮮明にせんがためと、共同幻想たるロックなるものが実際に存在するものかどうか、それすら危ぶんでいる地点からモノを考えなおしたかったからだ。自分の手元にある武器は、その不明瞭な、心もとないロックである。それに容を与えるのは、私自身のために他ならない。
そして、私は、ロックを忘れることから、この論を始めたわけである。
語るに出来る限りに意味が鮮明な語を選んでいるつもりだが、本稿はノートであり、試論である。思いのたけを一気に吐き出すことを優先している。あるいは、もつれた糸のようにして私の心に落ちてきた思いをできるだけ鮮度を落とさず一本の思索として書きとめることを優先している。他にもっと相応しい語や表現があるやもしれない。論点の不明瞭な点はさけているつもりだが、ことの性質から、やはり難解な部分があるだろう。
もちろん、これはノートであり、結論は未来にしかない。いずれロックを考え直す時に参考になれば、と考える。なお、実際にメモをノートに写し、さらに論を進めたのは、上記のように東大ロックフェスを機縁とすることを付記しておく。1984年初夏、前橋市、川のほとりにて記す
以上 第五章 本文了